昭和42年12月27日 朝の御理解
天の心、地の心p.24 に匹敵する御理解(即ち、初代が一番いいたかった事)
「山焼けてまた燃えいずるわらびかな」どういうとこから出たのかが分かる。
初代の小倉の桂先生、桂松平先生がある時、御祈念をなさっておる御祈念中に急に御祈念の座から紙と硯を持って来いと、と言うてそのおらばれる。すぐ紙と硯を持って行きましたら、そこで一気に書かれたという、「月いらば、また輝ける日の出かな」というその御教えを頂かれたという、「月いらば、また輝ける日の出かな」と。信心を頂いておかげを受けるということは、そういうことが分からしてもらい。
そういうことを信じさせて頂くことだと思うんですね。いつも月の出のような晩と、言わ、ようなことばかりはない。いつも昼を欺くようなお月様が煌々と照ってござるといったような時ばかりはない。それこそ一寸先も見えぬ闇の世というな時もあるけれども、ね、そういう時に、どうそのことに対処していくかと、そのことをどう受けていくかということを体得さしてもらうということ。
そこが私は信心だとおかげと。これもある先生が、教会が焼けてしもうて、ほんでその、ご本部にそのことのお届けに出られた時に、時の教官であった、何とかという先生が、その先生に贈られたという、ね。「山やけてまた燃えいずるわらびかな」。同じような感じですね。本当にあのう、焼けてしもうたと、意気消沈してしまうところには信心はないと。月が入ったからというて。
が真っ暗になるようなことではもう信心の値打ちはないと。そういう時こそ、いよいよ元気が出るような信心を、日頃しておかなければならない。そういうような時に、いつでも自分の心の光によって、不自由のない信心をしておかなければならない。それを頂くのが信心のおかげだと。月に群雲、花には嵐とこういう、ね。その群雲そのものの中に神愛を悟らしてもらい。
嵐の中に神様の願いを知ろうとする態度というか、そういう姿勢が必要なんである。そこを分かろうとせずに私くしは、ただ、自分の思うことが成就することだけがおかげのように思う中には本当のことは頂けない、ね。だからおかげというのは、自分の思うようになるおかげではなくて、「自分の思う以上になるのが本当のおかげだと言われておる、ね。それこそ、夢にも思わなかったとような。
と言う様なおかげこそが本当のおかげだと言われておる。」それでこそ私共は本当の幸せを感じる事が出来るのである。もうあれも成就これも叶うたと、ね、そう言う事がおかげだと言う様な思い方の中には、もう群雲が出たらもう寂しゅうなる。折角のこの花に嵐が吹いたらもうそれでおしまい、ね。山焼けたらもうそれぎり。月いらばもうそのままその人の運命が留まってしまうと言う様な事ではねいけん。
そこんところを私たちがよく分からして頂いて、おかげを頂いていかなければならん。おかげを受けていかなければならんということはそういうことだ、ね。あれは藤原の道長でしたかね、それこそ藤原一門の反映(ハンサイ)というかね、もう全盛の時に歌うた歌が、中にある。「この世をば、わが世とぞ思う望月の、かげたることもなしと思えば」という時代があったけれども。
もう、もうそれこそ次の瞬間のように次の時代にはですね、滅びなければならない、その前提であったわけでしょうが。これは私共のまあそれは、それが浮世と言えばおしまい、それまで、ね。ですからそういうことが、あれも成就した、これも思うようになるというような時には、もういよいよ、私共心をむしろ引き締めていかなければならない時である。自分の思うようにならんことがない。
自分の権勢というものが、だけでどういうことでもできる。それこそ、望月のかげたることもないという、この世をばわが世とぞ思うというような全盛の時。決してそれがおかげじゃないということ、ね。それはもう没落の前提だということ。ですから花には嵐、月には群雲という、その嵐の中にも群雲の中にも、私共は耐えれる力というか、ね、それを神愛と悟らしてもらう信心というか。
それが分からして頂く信心にならせてもらう時、私たちの上に頂けれるおかげが、ね、それこそ、思うようにというのでなくてね、思う以上のおかげというのである、ね。この思う以上のおかげ。夢にも思わなかったようなおかげ、頂くために私共は信心の精進をさして頂いておると言うてもよいのである。皆さん、自分の思うようになるごたるおかげども願うちゃなりませんよ、ね。
「月いらば、また輝ける日の出かな」、「山焼けてまた燃えいずるわらびかな」。そういう時に私くしその、それを確信さして頂けれる信心をしっかり鍛うとかなきゃいけません。天地の中に起きてくる事柄というものは、人間の知恵やら力ではどうにもできないことばっかりなのである、ね。その天地の中に起きてくることを自分の計画、自分の思う通りにしようとするところにお粗末、大ご無礼があるわけである。
どうぞこうして下さい、ああして下さいといったような願いはだから、よくよく考えてみるとご無礼なんだ。自分の思うようにしようとしておる。それを言うと、神様を自分が使おうとしておる、ね。それよりもお互いが本当に神様に素直に使われるという信心にならにゃいかん。本気で神様に使われる。昨日、昨日一昨日、一昨昨日から高橋さんが毎日出かけて来られる、宗教法人の大変難しい問題があるわけですね。
椛目の方は飛び地になる、あそこは境内になるそうです。あちらもやっぱ境内の一部になるわけです。それが以前がああいう何回にも何回にもわたってああいう、広うなっとりますことが、全然その、登記ができていないというので、もうそれはもう実に煩わしい。もう私は度々ここで、もって(「もって着てみせる」の意)そげなんば私ミスるなら私頭痛うなるばのちいうように難しいことなんです。
もうそれをもう、県庁、福岡の県庁に行かれた、ね。ここはいかんからと言やあまた、久留米の代書人の所まで来なければ分からないこと。電話ぐらいじゃ分からん。昨日でも三日間、続けてその御用のために専念しております。もうちいとイライラしてきて、ね、年末で、商売人の事ですから、御用も沢山あろうと私は思う。誰か他に相談する者なからんね、誰かあんたの代わりをする者おらんね。
けれども初めからタッチしておるからやっぱり自分でなからにゃ分からない。そんなら高橋さんいっちょ腹をすえなさいって私が。何遍、県庁と久留米の間を行ってもいいという腹をすえて、それが長引きゃ長引くだけそれだけ御用が大きい。神様の御用に使うて頂いておると思うて、腹すえておかげ頂きなさい。先生、これは右にしたが左にしたがよかじゃろう、もう分からんことがあるのです。で。
昨日、そのことだけをお伺いさして頂いて、ならこの方法とりなさい出来んなりに、ひとつ県庁に今日もまあ一遍行ってごらんて。だめです。昨日も行っていかんて言われたっちゃから、と言うておられましたけれど、夕べ夕方電話がかかってきて、おかげを頂いて、あちらの方は切り離して後からせろ、そしてこれだけを、こちらの方だけを受付けようということになったと。と言うて電話がかかってまいりました。
そしてそれからその後にまた電話が、今度は県庁から掛って来てもう一部書類を作成してくれ、また今日一日掛んなさなければならんその為に。けども大体まあ今年中にその見取りだけはついたと、言う訳で御座いますけれどもですね。本当にお道の信心さして頂いたらそれぞれの、例えば是だけのお広前が、運営されて行く為にはそれぞれの持ち場立場でです、それぞれの御用がやはり私は分担しなければいけない、ね。
自分の御用を人にどんお願いしようというようなことでは、そんなことでは私はおかげを受けられない。今日、私が様々に例をもって申しましたことからです、ね、そのまあ結論として申しますなら、ね、自分の思うごとなるような願いどん、立てなさいますな、それはよくよく考えると天地に対するご無礼だと、ね。折角花が咲いとりますけん、どうぞ風が吹きませんように。
折角煌々たるお月様出てござるから群雲が出ませんように、天地のことは私共の自由にならないこと。どういう神様の御神意がどこにどうあるやら分からん。それを私共がああして下さい、こうして下さいと言うのじゃいかんと、ね。ただしです、人間凡夫のことでございますから、それこそ相分かりもせず、ね、こうあらして頂けば有り難いのですから、お取次を頂いて、お願いをさして頂いて。
もうそれから先は神様、あなたが良い様にお計らい下さいという信心なんです。そして私がです今、今日申した自分の思う様になるのがおかげじゃない、思う以上のおかげを頂く為にです、ね、どう言う事になったらいいでしょうか、それこそ夢にも思わなかった様なおかげにならせて頂くために、願っておっただけの事じゃあない。それこそ願い以上の夢にも思わなかった様なおかげを頂くためにです、ね。
神様を自由にするじゃなくて、神様から自由にされれる、私達に成る事を努めなければならない。それを私は素直な心と思う、ね。私もその高橋さんの事、もう本当に気の毒でたまらん感じでした。少しイライラしよんなるから、もうイライラするとも無理はなかろうとこう思うた、ね。けども中々ああして責任感の強い方ですから、まあしておられるけれどもそれがもう、これが自分の責任じゃからと言うて。
もう歯を食いしばってする事でなくてです、もうその御用がそのまま神様の御用であるという受け方と、素直な心をもってですまた県庁まで行かにゃん、また久留米まで帰って来んならん。それが何遍繰り返されても繰り返されてもです、もう何遍でんひとつ動こうという気にならせて頂く所からです、ね、神様に使われよる自分というものを自覚すると有難うなってくる、ね。
私その先に神様が、ね、高橋定利のために自由に使われて下さる様な事に成って来る時、初めて夢にも思わなかった様なおかげ、言うなら枯木に花の咲く様なおかげが約束されるのじゃないかとこう思うのです、ね。ですから私共がしっかり信心の稽古をさせて頂くと言う事は、ね、山が焼けても月が入っても、ね、光を失わないどんなに真っ暗闇であっても信心の光を失わない、ね。どんなに焼けても、ね、
焼けたらかえって燃えいずるわらびのある事をです、確信さしてもらう。そういう確信のさしてもらう元気な心、そういう心をしっかり養うておかなければいけないて。そして、本気で神様に使われようという、ね、お役に立ちたいお役に立ちたいという願いと、ためには素直にはいと立ち上がれれる素直心とをつくっておかなければならないと、そこには自分の思うようにではなくて、思う以上のおかげの頂けれる、ね、
世界がある事を私共が知らなければいけません、ね。そういうおかげをもって、本当のおかげだと。願いが願うても願うても成就しない時には愈々神の願いが成就しておる時と悟れと仰る。一生懸命信心をする。願うても願うてもおかげにならん。思う様にならん時には、愈々私共の願いこそ叶うてはいないのだけれども、神様の願いは愈々成就しておる時であるのですから、お礼を申し上げなきゃいけない、ね。
願うたことがいちいち成就していく。もうそういう時にはいよいよ警戒が必要である、ね。この世をばわが世とぞ思う時代がある、ね。それこそ望月のかげたることもなしと思えばというように、おごり高ぶる時が一番危ない時。それはもう没落の前提と思うてもよい、ね。むしろ、思うようにならん時こそ、神様の願いが成就しておる時でありますから、ここんところを大事にさして頂いて、ね
、いよいよ思う以上のおかげこそが本当のおかげじゃと仰る。私共が夢にも思わない、ね、それこそ思いもしなかったような、言わば、おかげが現われてくるようなおかげを頂かして頂いてこそ、本当のおかげであるということをひとつ分からしてもろうて、そういうおかげを頂けれる信心をひとつ求め求めしていかなきゃならんと思うね。
どうぞ。